明治18年(1885年)に東京・新宿に「フルーツ専門店」として産声を上げて以来、
新宿と共に発展してきた130年の歴史をご紹介します。

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イントロダクション

新宿高野は新宿駅開業と同じ明治18年(1885年)に東京・新宿に「フルーツ専門店」として産声を上げて以来、新宿とともに発展し、常に最高の美味しさと品質を求め続けてきました。
いち早く産地や生産者に注目し、他に先駆けて自社工場を設立、フルーツの魅力を生かしたオリジナル商品の開発、さらにはフルーツパーラーを展開するなど、常にフルーツの美味しさと可能性を追求してきました。フルーツギフト専門店として、お客様の信頼を裏切らず、一人一人のご要望に上質な商品とサービスで誠心誠意お客様にお応えしたい。時は移り、人の価値や街の風景は変わっても、その思いは変わることなく、新宿高野は次の100年を目指します。

1885年創業

1885
弊社の創業は1885年(明治18年)で、新宿駅の開業(日本鉄道・品川~新宿間)と同じ年になります。ですからJR新宿駅も今年開設130周年になります。初代髙野吉太郎が現在の新宿駅ビルあたりに、繭仲買・古道具を本業とし、果実を副業とする(ヤマキ)高野商店を創業いたしました。
当時新宿駅は人通りもまばらで、「一日三往復で、貨物はあるが客は無く、雨天になると乗降客皆無しという、さびしい駅であった」(芳賀善次郎著「新宿の今昔」)とあるように当時駅舎は、盛り場であった内藤新宿の中心からはずれた、さびれた場所(現在の位置)に作られていました。後年、この宿場のはずれのさびれた地域が、駅の発展と共に繁華街の中心となっていくのです。駅前にあった弊社も駅の発展と共に果物屋としての商売が盛んになっていきます。

果物の歴史は新宿から新宿御苑の歴史

日本の果物の歴史を語る上で忘れてはならないのが、新宿御苑にあった農事試験場です。当時(1872年 明治5年)明治政府は、果樹栽培による農業振興のため新宿御苑にあった農事試験場に、欧米から数百種の果樹苗を輸入し栽培しました。そして、その苗が日本全国に配布され現在のような果物天国日本へと発展してくるのです。この新宿御苑農事試験場において福羽逸人(はやと)博士は果樹研究において日本の果物の発展に大きな貢献をし、今につながる「ふじりんご」や苺のルーツといわれる「福羽イチゴ」、そしてマスカット・オブ・アレキサンドリアなどの逸品が生み出されました。その結果1885年(明治18年)には、芸術果と賞される温室メロン「マスクメロン」の栽培にも成功しています。このように現在当たり前に食べられている果物の多くが明治以降に新宿御苑にあった農事試験場において品種改良され、現在我々が食するフルーツができあがってくるのです。その意味で、新宿はフルーツの歴史を語る上で非常に重要な場所であると言えると思います。

鉄道と共に発展していく新宿東口周辺

1907
一方、駅前を中心とした東口では、鉄道が敷かれると道路も拡張され、それまで江戸時代の宿場そのままだった街並みが新しい姿に変わっていきました。特に日露戦争後、戦後の好景気により都市化が進み、多くの人が移り住んできて田畑が市街地化して、人口は急増し、土地の価格も急騰しました。このことが新宿高野の商業活動に大変有利に働き、新宿高野が果物屋として多くの人々を相手にした商売に発展していきました。そして、明治40年以降、進物に果物を用いることが大流行し、弊社も大きく発展していきます。

マスクメロンの販売と大正モダンそしてフルーツパーラー

1920
 大正時代に入りますと、1920年(大正9年)二代目髙野吉太郎が時代の趨勢を読み、高級果実のマスクメロン販売を開始いたします。このことがきっかで大衆を相手にしていた量販の商売からさらに高級果実店へと大きく販路を拡大するきっかけとなります。この年は、早稲田大学の創始者であり果樹園芸の大家でもあった大隈重信公爵が、マスクメロンを推奨して試食会を催し当時大きな話題となりました。そして関東大震災の後、新宿の街は一変しました。三越デパートが進出しモダンな商店街へと変貌し、新宿駅は鉄筋コンクリート二階建てのモダンな駅舎に生まれ変わりました。そのような街の変化の中で1926年(大正15年)弊社の商店も洋風建築に改装し、フルーツパーラーを設立します。当時珍しいアルファベットを用いた「TAKANO」のロゴマークを採用し、大正モダンの流れの中で、フルーツパーラーは当時の流行の場所となっていきます。ちなみにこの「フルーツパーラー」という呼び名は和製英語で、現在でも英語圏に「フルーツパーラー」という業態は存在しません。そしてこの大正モダンの流れを中村屋さんの文化サロンや、新宿高野のフルーツパーラーが作り上げ、「紀伊国屋で本を買い、中村屋でカリーを食べて、タカノフルーツパーラーでお茶をする」というのがお洒落な休日の過ごし方と当時言われていた事が象徴するように、新宿の老舗御三家とも言われている中村屋さん、紀伊国屋さん、新宿高野は、進んだ生活、ハイカラな生活の最先端を切り拓く新しい生活文化の創造に寄与したと考えております。

戦後の復興と歩行者天国、ファッションの街・新宿の発展​

1964
時代は下りまして、太平洋戦争をはさみ、戦後新宿の街は大きな発展をしていきます。高度経済成長と共に東京オリンピックが開催(1964年 昭和39年)され、新宿では副都心化が進み、新しい現在のJR新宿駅ビルがこの年に誕生します。弊社においては、私の父にあたります三代目髙野吉太郎の時代となり、輸入の自由化も始まります。そして自社工場を設立し昭和30年代後半から、本格的に自家製フルーツ加工品の製造に取組み、素材フルーツの魅力を最大限に生かすという発想から「生」をキーワードとした生ジャム、生ワインといった一連の生シリーズを発売し大きな反響を呼びました。また新宿は伊勢丹を中心としたファッションの街として、新宿大通りのホリデープロムナードと呼ばれた歩行者天国が大変な賑わいを見せます。そして現在の本店ビル「フレッシュターミナル」(地上8階・地下4 階)が竣工し、1972年(昭和47年)より新宿本店前が土地評価額でこの後10年間日本一となり、毎年「新宿のタカノフルーツパーラー前」という表現がNHKを通して全国に喧伝されることになります。この時期弊社の事業は高級フルーツ店としての専門化と同時に、高度経済成長の波に乗った多角化経営を推し進め、輸入食品を含めた総合食品スーパー事業の展開、そしてファッション事業により海外へも進出を致しました。​

四代目襲名と本店改装&ブランドリニューアルそして創業130周年へ

1991
その後新宿の街は、1991年(平成3年)東京都庁が丸の内から新宿へ移転して、1996年(平成8年)には新宿南口にタカシマヤタイムズスクエアオープン。2008年(平成20年)には副都心線全線開通という現在につながる発展をしていきますが、1990年代のバブル経済の崩壊と共に、弊社におきましては、多角化した事業を整理し、老舗・フルーツ専門店として本業に立ち戻り、さらなる発展を目指してブランド力の向上をはかっていくことなります。新しい府中工場の設立や戸田物流センターのオープンなどを手がける中で、創業120周年にあたる2005年(平成17年)に私が四代目髙野吉太郎を襲名いたしました。そして2006年(平成18年)、さらなるブランド価値の向上を目指し、新宿本店 B1フルーツギフトフロア、B2フーズフロア大改装を実施するのと同時に、ロゴマークなどブランドデザインを一新し、タカノのブランド表現の刷新を図り、現在に至っています。

社長挨拶

拝啓 皆様にはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、この度、フルーツ専門店・新宿高野は、本年10月8 日(木)をもちまして創業130周年を迎えます。
これを機会に、人々の暮らしの中でフルーツの果たしてきた役割とフルーツそのものの魅力をあらためて見直し、自然の恵みを真に体現したフルーツを使った新しいライフスタイルのあり方をさまざまな商品やサービスを通して提案いたします。
産地を見極め、厳しい基準で選りすぐった極上のフルーツと卓越した加工技術によるフルーツの個性を生かしたケーキやデザートなどのオリジナルフーズ群の提案、そしてフルーツの魅力を学べるカルチャー教室の開催や産地や生産者を紹介する情報誌の発刊など、専門店としてフルーツ文化の振興にも尽力して参りたいと考えております。是非この機会にご賞味ご高覧下さい。

また、弊社は社名にもなっておりますように、創業の地である新宿の発展と共に歩んで参りました。新宿の元は高遠藩内藤家の屋敷地から街が始まっており、明治になってその屋敷地跡は農事試験場となり、現在我々が食しているフルーツの多くがここで品種改良されました。この農事試験場が現在の新宿御苑です。
新宿は弊社にとってもフルーツにとっても大変縁深い関係にあります。
これらの縁(えにし)を画題に琳派の桜の名手として誉れ高い山岸泉琳先生に、記念の絵画を制作していただきました。この絵画は、創業月の10月に中村屋サロン美術館で開催いたします「新宿高野の歴史展」に展示いたします。あわせてご紹介させていただきます。
» 記念絵画はこちら

江戸時代、高遠桜で有名な高遠藩の内藤清成の屋敷があった新宿。新宿高野は130年前、この地に生まれ、果物を商ってまいりました。 桜と果物をモチーフにしたこの作品には、新宿高野四代目社長 髙野吉太郎の新宿と果物への深く熱い思いが込められています。
『新宿高野130周年記念図−高遠桜と実りの舞い』作:山岸 泉琳